福岡県出身の明治~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
「馬の画家」と呼ばれたほど多くの馬の絵を残しており、その他にも柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年に残した月を題材にした作品も独自の境地を開いています。
第二次世界大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになり、同郷の青木繁は親友でもあり、ライバルとして互いに意識し合っていたそうです。
10歳で地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んでいた坂本繁二郎は、高等小学校に上がる頃にはかなりの技量を持っており、「神童」ともてはやされていました。
森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていましたが、他校へ転任する事が決まり、坂本繁二郎を自分の後任として指名し、坂本繁二郎は図画代用教員となります。
そんな中、東京で絵を勉強していた青木繁が徴兵検査のために帰郷しており、その作品を見た坂本繁二郎は青木繁の画技の上達に驚きを隠せませんでした。
こうしてわずか数か月後には青木繁とともに上京し、小山正太郎の不同舎に入りました。
文展で入選し、二科会創立にも参加するなど活躍の場を広げていった坂本繁二郎は渡仏してシャルル・ゲランに師事しました。
フランスでは有名な画家の作品よりも、ありのままの自然に心奪われ、柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増していきました。
こうして生まれた『ブルターニュ』は物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと変化していき、この画法で描いた肖像画『帽子を持てる女』は本場の画家たちから高く評価されました。
帰国してからは東京に戻る事なく九州で制作活動を続け、梅野満雄の援助で福岡県八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立しています。
フランスで学んだ画法を用いて九州の風景を描き続け、物の存在の本質的な追求を続けました。
自らの制作活動を行う一方で、28歳という若さで亡くなった青木繁の遺作展の開催や画集の刊行のために奔走しており、坂本繁二郎が亡くなった後、青木繁の画学生時代に描いたと思われる未発表のスケッチなど60数点が発見され、坂本繁二郎がなぜこれらの存在を誰にも知らせずに秘蔵していたのかは現在でも分かっていません。